
高須賀穣さんは白豪主義のオーストラリアで数々の困難に立ち向かい稲作を成功させた日本人。TBS系の「世界ふしぎ発見!」で紹介されるということなので今回は高須賀穣さんについてまとめてみました。
高須賀穣さんのプロフィール
それではまずは、高須賀穣さんのプロフィールから見てきましょう。
高須賀穣
ニックネーム:ジョー
生年月日:1865年2月13日
出身地:愛媛県松山市
出身校:デ・パウ大学、ウエストミンスター大学
高須賀穣さんは愛媛県松山市の出身。
1865年生まれということなので、慶応5年に生まれました。
高須賀穣さんの名前の読み方は、
「たかすがじょう」と「たかすがゆずる」、更に名字の「高須賀」も「たかすが」と「たかすか」の2パターンで記載されていることがありました。
因みに、高須賀穣さんは、もともとは高須賀伊三郎という名前だったようですが後に改名?したようです。
アメリカやオーストラリアにいる時は、英語でも呼びやすいジョーと呼ばれていたようです。
勉強が得意だった高須賀穣さんは慶應義塾大学で学びましたが海外への関心が強くアメリカの大学に留学します。
明治時代にどれくらいの人が海外に留学していたのか分かりませんが、今のように気軽に留学できる環境ではなかったと思うので、その時代に留学を実現した高須賀穣さんの行動力は半端ないですね。
この行動力がその後の高須賀穣さんの人生でも重要なポイントになりそうです。
高須賀穣さんの経歴は?
アメリカの大学で学んだ高須賀穣さんは1897年に帰国して、衆議院選挙に立候補していきなり当選します。
明治時代にアメリカの大学に留学した高須賀穣さんは、若くして海外の生活を体験したことで、明治時代という大きな転換期にあった日本の生活向上に役立ちたいと考えたのかもしれないですね。
衆議院議員として4年間国政に携わった高須賀穣さんが次に向かったのはオーストラリア。
1989年に結婚した奥さんのイチコさんと息子と娘を連れて船でオーストラリアのメルボルンに渡りました。
この時の高須賀穣さんの年齢はすでに40歳。
40歳という年齢で、新しい土地で新しい生活を始めるという選択した高須賀穣さんの行動力は半端ないですね。
オーストラリアに稲作を伝えたジョー
高須賀穣さんがオーストラリアに渡った当時、「移住制限法」という白豪主義に基づく政策がとられていたため、高須賀穣さんが取得したビザも1年という期限つきで、オーストラリアに留まる場合は1年毎に更新する必要があったそうです。
メルボルンでの生活を始めた高須賀穣さんは、日本の製品を販売する輸入業を始め、生活のためにカレッジで日本語を教えていました。
オーストラリアでの生活も落ち着いてくると、日本では自国栽培が当り前だったお米がオーストラリアでは輸入にたよっていることに気づきます。
オーストラリアは国土が広く、稲作に適した土地も余っていたため持ち前の行動力で、メルボルンのあるビクトリア州に稲作をさせてもらえないかと直談判にいったのです。
当時、ビクトリア州の首相や国土省の大臣に稲作は他の作物を栽培できない湿地で米を栽培することができるから、マレー川沿いで稲作をやらせてくれないかと相談したそうです。
高須賀穣さんの熱意が通じたのか、ビクトリア州政府はこれを了承し、高須賀穣さんは200エーカーの土地で稲作を始めました。
日本から持ち込んだ米を使い稲作を始めた高須賀穣さんですが、
- 羊に稲の芽を食べられる
- 水不足
- 築堤工事に時間がかかる
- 洪水
などさまざま困難がありなかなか収穫までこぎつけることができません。
大雨が降る度に洪水となるマレー川から水田を守るために、堤防を数年がかりで作った高須賀穣さんは、1918年についに堤防を完成。
この堤防が完成したことで、洪水から水田を守ることができるようになり、高須賀穣さんが稲作をはじめて5年目にしてようやく収穫に成功!

出展:http://www.konishi.co.jp/
これまでに日本から持ち込んだ様々な種類を植えましたが、この年に収穫できたのは
- 日照り知らず
- 賀平
- 新力
の3種類だったそうです。
1910年には次男が生まれるなど多忙な時間を過ごした高須賀穣さんは、5年目にしてようやく収穫に成功した高須賀穣さんは、この土地の永続借用権を申請しましたが、白豪主義の影響もあったのかなかなか通らず1915年にやっと永続借用権を獲得。
その後も稲作を続けた高須賀穣さんは1922年に今度はマレー川沿いの土地を自由保有権も取得しています。
稲作以外の栽培にもトライして最後は・・・
マレー川の洪水など度重なる苦難を乗り越えて米の栽培を軌道に乗せた高須賀穣さんは、ぶどうやトマトなどコメ以外の作物の栽培も始めます。
そして、70歳になる前に農業を息子たちに任せて、1939年に日本に帰国した高須賀穣さんは、翌年1940年に生まれ育った愛媛県松山市の実家で寝ている最中に心臓麻痺を起こして亡くなって75歳の人生に幕を閉じました。
まとめ
オーストラリアは現在、世界でも有数のジャポニカ米の生産地ですが、その陰には、白豪主義のオーストラリアで奮闘した日本人、高須賀穣さんのたゆまぬ努力があったのですね。
明治時代にアメリカに留学し、帰国後は衆議院議員になり政治家という状況だったにも関わらず、未知の国での生活を選択し、数々の苦難を乗り越えてオーストラリアで稲作を成功させた高須賀穣さんの行動力は見習うものがあります。
高須賀穣さんは後に松平みなさんというオーストラリア在住の作家さんによって「穣(じょう)の一粒」という小説にもなっています。
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